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息子としての感情は解消するに至ったのか。|映画【百花】

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認知症という病気。実際問題自分の身にもふりかかるといてば、表現は失礼になってしまうかもしれないが自分の両親が認知症にならない確証はない。可能性として数%でもある限りこの作品を観ていて画面から目をそむけてしまう瞬間は3回程あった。原田美枝子さんが母役を、認知症をわずらっていく女性を演じていた。リアリティは強い。自分の母親がそうなった時をイメージし重ね合わせると正直なところどう向き合えば良いのか不明になる点もある。しかし、私は両親のことを口に出して嫌いだと言える部分があり心をあまり持ち得ていないという認識からドライにいけるのではないかというあまりにも勝手な憶測もある。果たして現実問題はいかがなものか。来るべき時が来た時にしか答え合わせは不可能だが、常に頭の片隅に用意はされているような気もする。

 

この映画の紹介がTVCMで始まった時にみていた感情は感動作品を眺めるそれでしかなかったが、実際に作品を観始めるとそこに差異はたくさんあった。あくまでCMで流れる箇所はセリフと画像が一致していないことが大方だ。その為にたくさん、より強く都合よく解釈していく。

 

母親が男と子供を置いて逃げた。という物語の一部だが”逃げた”という表現がよくこういった場面で使われる。私はこの場面、こういった出来事は”逃げた”ではないと子供の頃から思っていた。確かに家族がある人が籍の外にいる異性と自分の家族を返りみずいなくなってしまうことはそういう体裁になるのかもしれないが本人達からすれば選択しただけのことであって”逃げた”わけではないと受け止めている。私の幼馴染の一人に3人兄弟の末っ子の男性がいた。野球が好きな3兄妹でその上の長女、長男とも私は仲が良くキャッチボールをよくして貰った記憶は明確だ。その母親は私たちが高校生の頃に突然家に帰宅しなくなり世間でいうところの蒸発したという表現に替わった。高校生ながらに逃げたとは思わなかったが私の母親とか近所の人達は逃げたというような言い方をしていた。何も知らないのに。

 

映画は子供役、菅田将暉と母役、原田美枝子の葛藤が交錯する物語だ。菅田将暉の妻役に長澤まさみがキャスティングされており夫婦2人で乗るバス、帰り道に妻が夫に向かって「いつまで謝らせるつもり?」と問う場面がある。ここは印象深い。謝らせ続けたいわけではないだろうが、息子としては母に対してどういう風に【ある出来事】を解消させたいのか、してもらいたいのかの言葉に成らない物ではないだろうか。大人になって味わうそれと子供の頃に、ましてや父がいない家庭で起きたそれは意味が深い。

 

物語の展開上といってしまえばそれまでだが、事故により結果的には母は子の元に帰ったわけで事故が起きなければ子のもとには戻ることはなかったのではないかとも当たり前に考える。どちらを選択しようがそれは個人の自由でその時の心情と環境でしかないのだろうがフォーカスされている点はそこにある。

 

2人の記憶と忘却を洗うかのような飛び道具の花火は感心させられた。それの存在は初めて知ったし、確かにそういったものも地形上、特徴的に発生するのも自然なことだと思うし、これもまた偶然の産物だと思われる。

 

最後はうまくまとまったようにも映るし、そうでないようなモヤっとした感じも匂わせたままエンドロールに入った。受け止め方や解釈はひとそれぞれに成るのも映画の醍醐味のひとつであることに変わりはない。余談ではあるが泉役(菅田将暉)が勤める会社の責任者、上司が声とシルエットだけで登場しているが直ぐに誰だかわかる声と立ち回りは俳優として凄いなと感じた。

そして、永瀬正敏さんのクレジットはエンドロールの最後の最後に登場する…これは予想通り過ぎた。

 

 

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