前に進むための場所

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テネシーウィスキー

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 季節は春が過ぎたころ。ゴルフ帰りの4人が6人掛けのテーブル席で反省会と称して盛り上がっていた。8人座れるカウンター席は既に埋まっており、もう一つのテーブル席、入り口付近に設置してある場所も先客で埋まっていた。

 

 このお店、BARの屋号は倶楽部。場所は中野駅から新井薬師の方角に進む。早稲田通りを渡り、薬師アイロードを少しだけ直進すると左側に中華料理店がある。その中華料理店の地下に位置する。客層は場所柄、当然に住まいが周辺の人が大多数だ。その大きくもなく小さくもないBARには店長と新人2人で営業している。店長(29才)は元自衛官、新人(25才)はフリーター。

 店長の気さくさと柔軟性でファンが多く集いアットホームさが売りだと一度訪れれば誰でも感じるタイプのBARだ。

 

 ゴルフ帰りの4人グループ。リーダー各のHさん(IT会社経営、56才)はこだわりが強く自己主張も多い。皆に慕われていると同時に面倒だとあしらわれる時もあるが、そんなキャラが憎まれない要因かもしれない。

 

 この日は早い夏が来たように気温が高く、ゴルフでラウンドをまわるには夏日に感じるぐらいの空模様だった。ゴルフ帰りの4人は海に行って遊んできたかのように顔が日焼けしており、少し薄暗いBARの照明の明かりでもその顔の赤みに気づく表情だ。暑かったが故にBARで注文する1杯目のお酒がビールかどうかは人それぞれだが、4人共に1杯目は生ビールで喉を当たり前に潤した。

 BAR倶楽部、ここで提供している生ビールはレーベンブロイ。口当たりが優しく、泡もきめ細やかで少し酸味がある味わいがより1杯目に適した銘柄だ。炭酸水のように、水のように飲み続けられるその味わいが女性にも支持される点かもしれない。

 BARのゲストに関わらずお酒を飲む席では2杯目が当人の真骨頂なシチュエーションが多い。自分の推す銘柄を、カクテルをウィスキーを所望される。勿論のことHさんにも強い推しがあり2杯目は大好きなウィスキーを注文した。

 

 Hさんは新人のバーテンダーに向かって…

「おい!ムッシュ。俺このあとジャックね。ジャックソーダ!!」

新人バーテンダーはこのBAR倶楽部で雇われ、カウンターに立ってから1か月にも満たない。そんな新人に対しHさんが「ムッシュ」と呼びかける理由は、新人バーテンダーの髪、ヘアスタイルが肩に触れるぐらいの長さで、カウンターに立ち仕事をする時は整髪料のジェルをふんだんに使いしっかりとオールバックにまとめている。この風貌がHさんから見るとムッシュかまやつ氏を連想させるそうだ。このムッシュの表現はあまり周囲に共感を得られなかったが…中には『若い時のムッシュに例えているね』とフォローする声もあった。

 新人バーテンダーの経験は浅いが、ある程度基礎は固まっている。店長の替わりにドリンクを作り、提供することを既にまかされていた。その分、店長は他の常連さんや新規で入って来るゲスト、テーブル席へのケアに集中できた。

 

 新人バーテンダーが教科書通りにジャックソーダを仕上げ、Hさんに提供した。

新人バーテンダーは新しい店で働く緊張感はあったが表情に、ゲストにそれを伝わらない様立ち振る舞っていた。それでも、少しだけバースプーンを握る手は震えている事に自分だけが気づいていた。

 

 カクテル、ジャックソーダを受け取ったHさんはひと口飲む直前、そばにあるウィスキーのボトルに目が行った。ソーダグラスの縁が唇に当たる寸前のところでそのグラスを掴む右手を下げてカウンターにグラスが戻された。

ムッシュ!!違うんだよ。俺がジャックって!言ったらジェントルマンジャックなんだよ。ジャックダニエルは間違いなんだよ。…初めてだからわかんないだろうが覚えてよ! 俺はジェントルマンジャックなの。」

 新人バーテンダーは一瞬なにを言われているのかわからなかったが、直ぐに理解した。

Hさんに提供したジャックソーダの横にベースで使用したウィスキーボトルを置いていた。カクテルで使用したベースの銘柄がわかるように置くことがBAR倶楽部での暗黙、それは黒いラベルのジャックダニエル。Hさんが求めるジャックソーダはウィスキーの銘柄が違う。ジャックダニエルではない。ジェントルマンジャックを使ったソーダ割。同じウィスキーのソーダ割だがベースの銘柄が違う。

 追い打ちをかけるようにHさんは言葉を続けた。

「中野はさぁ…ジャックって言ったらジャックダニエルじゃなくて、ジェントルマンジャックなの!!」

と物凄い独りよがりな理由を、この界隈のルールかのように新人バーテンダーに投げた。連れの3人はヨイショではないが同意の頷きをしたかのようにも見えた。否定できそうで否定できないキャラのHさん。笑いで済む一連の流れなのでユニークないっときではあった。

 新人バーテンダーは常連に失礼があったようで真摯に受け止め一度謝罪をした。提供したジャックダニエルを使った、ジャックソーダをHさんの手元から下げてカウンター内のシンクに置いた。

急いで作り直す旨をHさんに伝え、ジャックダニエルの黒が基調なボトルをバックバーの棚に戻し、改めて淡いベージュ色のラベルで覆われたジェントルマンジャックをカウンターに置いた。

 アメリカのウィスキーはバーボンが有名でバーボンという言葉が独り歩きするが、並行して有名なのはジャックダニエルだ。マーケティングが功を制して地位を築いたと思う。だがジャックダニエルの詳細はテネシーウィスキーというカテゴリーだ。バーボンウィスキーとテネシーウィスキーの何が違うのかと問われた場合の返答はこうだ。

【蒸留して出来たアメリカンウィスキーをサトウカエデの炭でろ過したもの】

端的に言うとこの違いがバーボンウィスキーとテネシーウィスキーの差分だ。補足ではシャンパンのシャンパーニュ地区内で醸造されたもの、のようにテネシー州内で醸造されたものというルールもあった筈だ。

 

 新人バーテンダーは何事もなかったようにジェントルマンジャックを用意する。ソーダ割を作る為にハイボール用グラスをカウンターに置く。ジェントルマンジャックのソーダ割を急いで作った。

Hさんに再度一礼を含めジャックのソーダ割を提供した。

Hさんは既に連れの3人と根を詰めた話に入っていたのでジャックダニエルとジェントルマンジャックの違いに触れることはなかった。

 このようなシチュエーションは起こりそうで起きない、年間で考えたら2回もなさそうな内容だが新人バーテンダーにとってはサービスの引き出しとして良い経験になった。

 傍観する店長もそれを理解してか、はたまた全く興味がなく新人バーテンダーの実力を信頼しての放置だったか。

 

 BARは止まり木であり、奥深い。

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